ミッソーニ駐日代表、ブリオーニ、ジャンフランコ・フェレ、TOD’sなど、イタリアを代表する数々のファッションブランドのPRを手掛け活躍を続けるスゴい人が本日登場する。
彼女が仕事を始めた当時はまだPRが仕事として確立されていない時代。
日本における企業のPR担当の先駆けともいえる人物だ。
現在もなお活躍を続けるスゴい人の仕事法とは?
さあ・・・ミッソーニ 駐日代表、CARUSO PR AND SPORKESPERSON FOR JAPAN 遠藤美紀子様の登場です!
「PRはブランドの顔」
幼い頃はミッションスクールに通い、父の方針で当時にしては珍しく中学一年生から既に週に3回、カナダ人の家庭教師から英会話の指導を受けていました。
当時は嫌だと思っていましたが、そのおかげで英語が得意になり、海外で仕事をする時にも不自由しませんでしたので、今では父に感謝しています。
私はキャリアウーマンの出身ではございません。
主人が1970年代の後半に西武百貨店の初代のミラノ駐在部長でした。
駐在部は通常は何を決めるにも本社の許可を取らなければなりませんでしたが、西武流通グループの代表であった堤清二さんの信用を得て、「いいようにやりたまえ」とすべて任せて頂いていました。
それで、アルマーニ、ベルサーチ、ジャンフランコ・フェレ、ベネトン、ミッソーニ、ドルチェ&ガッバーナなど重要なイタリアブランドをはじめて日本に導入したのが主人でした。
私は当時主婦でしたが、遠藤の妻としてVOGUEの編集長などと並んで最前列で最新のコレクションを着てファッションショーを見ていました。
その後日本に帰国。
ミッソーニから「美紀子がファッションショーに来ないと寂しい。MISSONIの日本の代表として東京でPRをやらないか」とお誘いを受けたのです。
当時はまだPRという仕事は確立されていませんでしたので「PRって何?」と聞いたほどでしたが、
それをきっかけにPRの仕事を始め、今日まで続けてまいりました。
日本で仕事をするうえで「男社会」は一つの壁となりました。
イタリアブランドのPRでもお取引先は日本企業ですから、完全な男社会の中に女一人で飛び込んで、丁々発止と仕事をしている内に要領を覚え今日に至っています。
日本で30年近く仕事をしてきましたが、私は、常に新しいことにチャレンジしています。
1つのブランドを数年かけてPRのレールを敷いて、日本での基盤が整った頃にいつも不思議と別のブランドから実績を買われて声をかけて頂くのです。
そして又、そのブランドのイメージを数年かけて日本で確立させて、後進に道を譲る…ということを繰り返してきました。
でも、ミッソーニだけはファミリーのようにずっと一緒にお仕事をさせていただいています。
◆MISSONI
http://www.missoni.com/jp
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