日本人で初めてアメリカのメイクアップ・アーティスト・ユニオンの正式会員となり「フラッシュダンス」のボディメイクで一躍注目され、以降アカデミー賞受賞作品「アメリカン・ビューティー」や人気TVドラマ「アリー・myラブ」などで活躍。10年間、LAディズニーランドでジャパンデーの開催をブロデュースして1984年にLAディズニーから感謝状を授与。2003年、TV界のアカデミー賞のエミー賞最優秀賞をメイクアップ部門で日本人初受賞した。『真の日本人の姿を米国映画界に理解して欲しい』と願い着物の歴史と時代考証をおりまぜた着物ショーをLA映画スタジオのセンタースタジオで行うなどして2006年、日本で旭日双光賞を受賞した。アメリカに渡って約46年。日本人の誇りを忘れない彼女の生き方とは?
さあ・・・メイクアップアーティストカオリ・ナラ・ターナー様の登場です!
「基本がなければ明日はありません」
生まれは東京・蓮沼。6歳からタップダンスを習い、女らしくなって欲しいという母の願いで
日本舞踊を同時に習いました。「エー」・「ウッソー」と自分の中の絶対が崩れる時が
人の一生には3回あります。
1回目は、12才の時に何もかも完璧で大好きだった父が亡くなったこと。本当に悲しかったです。そして母を支える為に戦後14才で日本舞踊とタップダンスの特技を活かして進駐軍基地のステージに立ち、仕事の傍らジャズダンスとアクロバットを猛烈にレッスンしました。
踊るのは大好きでした。お陰で20才でヴォードヴィル・ショーの牙城、浅草新世界でトップダンサーになりました。
そして絶対がくずれる2回目は、トップダンサーでスターだった私が劇場の経営方針が変わりギャラが減らされることになり退団したこと。その後、日本文化使節団の一員に選ばれ、イスラエル、西ドイツ、スイス、イギリス、そして運命の出会いをした香港へ行きました。香港で主人に出会って2週間でプロポーズされ、スティーブ・マックイーンの仲人で結婚をしました。
結婚後も大好きな踊りを続けさせてくれ、ラスベガスでショーに出演。
しかし突然のアクシデントで膝のじん帯を痛めてダンサー生命を失うことに。
これが3回目の絶対がくずれた時でした。
いいこともステイしないし、悪いこともステイしません。毎日、変わります。
メイクアップ・アーティストとしてアカデミー賞やエミー賞も受賞していた彼の勧めでボディメイク、ビューティメイク、特殊メイクなど3日間に渡るテストにパスをして
私の第2の人生はスタートしました。
踊ることが人生だと思っていましたがメイクアップ・アーティストになり、たくさんのお友達ができたし、生活に困らない収入もありました。エミー賞やディズニーランドから感謝状を頂いたり数多くの受賞を頂けたのも私の好き勝手を許してくれた主人のおかげ。感謝するばかりです。
今後は、日系1世、2世の方たちへのご恩返しの為に敬老ホームの支援を続け日本人の素晴らしさを伝えられる日本と米国を結ぶ映画を作りたいです。
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