2013年 ぴあ初日満足度ランキング1位、王様のブランチ ミニシアターランキング1位、ギャラクシー賞や文化放送基金賞、2011年 月刊TVガイドドラマ部門第1位、その他多くの賞を獲得した映画・ドラマの原作漫画「鈴木先生」
ひとつの教室を舞台に生徒に起こる様々な事件を、鈴木先生が情熱的に解決していくというストーリーだ。
本日のスゴい人は、その原作を描いた漫画家。
連載を持った漫画は、「鈴木先生」が初めてだという。
幼い頃から漫画を描き続け、漫画家になると宣言してきた。
ヒット作となった「鈴木先生」の制作当時、彼は35歳。
一時は漫画を描かなかった時期もあるという。彼はどのようにしてヒット作品を生む事ができたのだろうか?
さあ・・・文芸漫画製作 胡蝶社 漫画家 武富健治様の登場です!
「期限を決めない」
幼い頃は、漫画をひたすら描いている子どもでした。
絵やデザインでなく、漫画を描き続けたのは、ストーリー性がある方が自分にはしっくりきたからです。
幸運にも大学に入ってすぐに投稿した漫画が賞に引っかかり、担当がついてくれるようになりました。
そのため、漫画の世界でやっていけると勘違いをしてそのまま進路も決めました。
2?3年で花開くだろうと甘く考えていましたが、なかなか作品は認められませんでした。
それどころか、年々評価は下降するばかり。
自分自身には成長の確信があったにも関わらず、むしろ評価は下がっていくのがつらかったです。
その後短編デビューは出来ましたが、風向きは変わらず、30歳を過ぎたあたりから、次第に漫画をほとんど描かなくなってしまいました。
同時期に友人から、舞台を一緒にやらないかという誘いがありました。
舞台美術を描くのかと思っていましたが、役者として出演することに。
現代演劇ということもあり、素人役者を起用したかったようです。
当時漫画を全く描けなかったこともあり、やるからには全力でやろうと3年間演劇だけをやりました。
その後、結婚をすることになり、人生の節目で原点回帰と考えて漫画の世界に戻りました。
そこで、スイッチが入りました。
今までは、文学的なものを文学的なアプローチで描いていて、大衆受けしないと編集部から敬遠されていました。
この再スタートでは、とにかく漫画で食えるように、いざとなればこだわりを捨ててでもしがみつこうと覚悟していましたが、3年間打ち込んだ演劇の経験などのおかげか、自分の嫌な妥協をせずに読者や編集部に受け入れられるような方法で作品を作ることが、自然に出来るようになっていました。
本来、一度でもどこかでデビューしたことのある経験者は、編集部にネームと呼ばれるざっと絵と構成案を描いたものだけ持ち込めば良いのですが、私は完成原稿を持っていきました。
やはり、完成原稿でないと、自分の作品本来の迫力や繊細な面白さが伝わらないと考えたからです。
こうして出来上がったのが「鈴木先生」でした。
「鈴木先生」は高く評価をしていただけて、長期連載・ドラマ化と鈴木先生の輪は拡大していきました。
35歳で漫画家として軌道に乗れたのは、「あと○○年で連載が持てなかったら実家に帰る」など、特に辞める期日などを決めていなかったからだと思います。
やりたい事が上手く行かないとき、「期限を決めない」という選択もありますよ。
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