幼い頃に母を亡くし、父親と二人で暮らす中で学校よりも映画館に足を運び沢山の映画を観ていた少年の夢は、ハリウッドで映画監督になる事。
周りからの「なれるはずがない」というネガティブな言葉を跳ね除け、彼は日本で「あずみ」や「ゴジラ FINAL WARS」を監督し、2008年にはハリウッドでの初監督も果たした。
今回、大人気漫画「ルパン三世」の実写映画を手掛け、多くの人々がその評価に注目する中で見事に新しい世界を作り上げた。
この秋にはハリウッド三作目が始動する。
さあ・・・映画監督 北村龍平様の登場です!
「17歳の決意」
17歳の時、高校の授業中に退学届を書いて「俺はハリウッドで監督になる」と宣言し学校を辞めました。
それからはあらゆるアルバイトをして色々な体験をし、小銭が貯まると世界中を旅していました。
30歳手前、もう後がない状況。負け犬が集まって映画を作ることになりましたが、3000万の予定だった予算が直前で500万だけに。
普通は仕切り直すのかもしれませんが、始めなければ始まらないけど始めたことは終わらせるしかないと、そのまま制作を始めました。
毎日電話で交渉してあらゆる人からお金を借り続け、4000万の借金をして作品を作り上げました。
そうして完成した「ヴァーサス」という作品がフランスの映画祭で絶賛され、瞬く間に世界に噂が広がり、ハリウッドからオファーが来るようになりました。
そこから逆輸入という形で日本でも認められ、4年で5本の映画を撮りました。
4000万の借金をして作品を作った僕が、4年後には15億の予算でゴジラを撮るようになっていました。
「ゴジラ FINAL WARS」は日本映画で初めてハリウッドのチャイニーズ・シアターでワールドプレミアをしたのですが、そこにはそれまで世話になった友人や仲間を全員ご招待しました。
本当に最高に幸せな瞬間でした。
でも、居心地のいい場所にばかりいてはいけない。
17歳で宣言した挑戦をしないと。
ハリウッドで映画を撮る為、ゼロからのスタートをしました。
何とか1年後に「ミッドナイト・ミート・トレイン」を手がけ、公開前のテスト調査では過去に無いぐらいの高評価が出たので全米3000館を予定していましたが、公開数ヶ月前に事件が勃発。
配給会社でクーデターが起こり、社長が入れ替わって、前社長が手がけた全作品を封印してしまいました。
そこに公開直前だった僕の作品も含まれていたのです。
ハリウッドデビュー作がまさかの公開中止にされ、本当に苦しい数年間でした。
だけど作品は永遠に残ります。
数年経って徐々に評価が高まり始めて、ギレルモ・デル・トロ監督や作家のスティーブン・キングといった人達が絶賛してくれて、作品を観たアル・パチーノやケヴィン・コスナー、サミュエル・ジャクソンにニコラス・ケイジといったスター達が「何か一緒にやろう」と連絡をくれるようになり、大きな力をくれました。
40を過ぎてまさに「夢を食って」生きていた数年間でした。
そうしてハリウッド二作目を完成させ、渡米6年目にしてようやくハリウッドでの可能性が見えてきたタイミングで、山本又一郎プロデューサーから「ルパン三世」の話を頂き今なら出来る!と思い話を受けました。
先日のワールドプレミアで原作者であるモンキー・パンチ先生が見終わった時、「面白かった。監督の力量に感服しました」という言葉を頂き本当に嬉しかったです。
実に10年ぶりとなる日本メジャーカンバック作品で、こんな誇りに思える作品を作らせてもらえたことに感謝。
完成した作品は過去になかったほどの高評価を周りから頂いています。
そう、あの時のように夢の様な時間が今また来ている。
もう少し栄光の余韻を味わいたい気持ちはあるのですが、居心地のいい場所に居続けることはできません。
僕のやるべきことはあくまでハリウッドで攻め続けること。
だから今週末にはロスに帰り、またチャレンジして皆さんに楽しんでもらえる作品を作り続けます。
◆映画『ルパン三世』公式サイト
http://lupin-the-movie.jp/
◆書籍『映画監督という生き様』
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207501
※上記サイトは、一部携帯では見られない可能性があります。
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