様々な自動車レースに自社製作のレーシングカーを出場させている日本のレーシングカー・コンストラクター“童夢”
本日は、この会社を立ち上げたスゴい人が登場する。
童夢の歴史は、日本の自動車レースの黎明期であった1965年に彼が設計・製造し、当時のスター・ドライバーであった故浮谷東次郎氏の操縦により、デビュー・レースで優勝したホンダ・S600の改造車(通称カラス)から始まった。
その後もレーシングカーの製造を続け、1975年に現在の童夢を創業した。
以来、今日まで、日本では唯一と言われる本格的なレーシングカーを開発することが出来るレーシングカー・コンストラクターとして活躍してきた。
以前からの宣言通り、60代での引退を実行するための準備として2012年9月に一線を退き、現在は特別顧問として童夢のこれからについて思いを巡らせているころだ。
彼の車造りに賭けた人生とは?
さあ・・・株式会社童夢 特別顧問 林みのる様の登場です!
「俺の人生を絶対に真似するなよ(息子への言葉)」
画家で破天荒な父親と真面目で堅実な母親の間に生まれました。
小学生の頃から『子供の科学』を読みあさり、模型やラジコンなどのもの作りに没頭していましたね。
中学2年生くらいまではオーディオに熱中していましたが、14歳になったある日、スーパーカブに乗る機会があって、その瞬間、あれだけ夢中になっていたオーディオの事はすっぱり忘れ去り、バイクの魅力に取りつかれてしまったのです。
まだ14歳でしたから母にねだるしか手立てがなく、ひと月くらいひたすら頼み込んで買ってもらったスポーツカブをその日からバラバラにしてモトクロッサーに改造を始めたから、壊したと思って激怒した母がこづかいをくれなくなってしまったので、それ以来、基本的に自給自足です。
ええ、それからずっと最近まで金の苦労に付きまとわれて来た人生でしたが、その頃はその頃で、今は今でとてもお金のかかることをやってきたので普通の方法では追いつきませんでしたが、当時はまだ少年でしたから、バイク屋で新車の納車整備のアルバイトなどをして改造費を稼いでいたものです。
そのうち、次第に興味は自動車へと向くようになりました。
たぶん、その興味というのが他の人たちの何百倍も大きかったんだと思いますが、勉学にも友達にも女性にも全く興味を示さないような偏執的な熱情に追い立てられるように、今から考えても何であんなことが出来たんだろうと不思議なくらい無理に無理を重ねて、19歳の時に初めてレーシングカーを造って優勝してしまいました。
それからもレーシングカーを造り続けてきましたが、20歳の半ば頃、どうしても資金繰りがつかなくなってきて休止せざるを得なくなりましたが、それでも、どうしても車造りが諦められず、30歳の少し手前の頃、目的をスポーツカーに変更して童夢プロジェクトをスタートしました。
私は事業を成功させようと思ったことはありませんが、世界のレーシングカーと戦うにはそれなりの開発設備も必要ですし、なによりもお金がかかります。
だから、私の欲望を満たすためにはある程度の事業規模も必要となり、他人から見たら事業に熱心な経営者に見えたかもしれませんが、私にとっては、会社の経営なんて、常に、手段の一つにしか過ぎませんでした。
だから、まあ、いろいろ熱中してきましたが、気持ちとしては、全く仕事もせずに遊び倒してきたという感覚ですから、たまたま会社もつぶれずに今日に至っているものの、自慢できるような人生でもありませんでしたし、無謀な挑戦と運の良さだけで転がってきたようなもんですから、私の著書の中で、息子に「俺の人生を絶対に真似するなよ」と言っているくらい、放蕩三昧の人生でしたね。
◆童夢
http://www.dome.co.jp/index.html
※一部携帯では見られない可能性があります。
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