本日登場するスゴい人は、アジア最大の食品パッケージメーカーを経営する日本人のスゴい人!
同社は2000年に創業し、15年経った現在では83か国へ食品パッケージを輸出するほか、8店舗の日本食レストランの運営や、日本食のマレーシアへの輸出など、幅広く事業を展開している。
2014年にはマレーシアに貢献した人に国王から与えられるDatukという称号(地区王位騎士章)を授与された。
現在マレーシアには約3万人の日本人がいるが、その称号を持つ日本人は彼を含めてただ二人。
これほど活躍し、マレーシアの国に貢献している彼も、創業当初はとても苦労をしたという。
困難な時期をどのようにして乗り越えたのだろうか?
さあ…
HIRO FOODPACKAGES MANUFACTURING SDN BHD
Managing Director
Datuk 鈴木一郎様の登場です!
「遠慮の心」
父が商社の駐在員となり、46年前私が5歳の頃に家族でマレーシアに移りました。
中学までマレーシアで過ごしましたが、子どもだったので大変だったという記憶はありません。
父は後に第4代首相となったマハティールさんと協力して国営のパイナップル園の経営を立て直し、Tan sriという称号を授かりました。
高校・大学は日本の学校へ通い、大学では工学部でモノづくりを学びました。
食品パッケージで事業をおこすことは24、5年前から構想を練って、日本のパッケージ会社で6年間修業して、ニーズがあり間違いなく求められるものだと確信していました。
そして2000年、技術だけを持って「この国に絶対に必要である」という信念だけでマレーシアに工場をつくりました。
ところが、当時はまだマレーシアに食品パッケージという概念が無く、新聞紙やビニール袋などで包装していました。
そのため、コストのかかるパッケージは興味を持ってもなかなか取り入れてもらえず、最初の2年間は全く売れませんでした。
しかし、食品パッケージはスーパーマーケットの発展には必要不可欠なので、まだチャンスがあるはずだと信じ続けていました。
3年目、考えを切り替えて国内市場から先進国への輸出にシフトし、アメリカ・ロサンゼルスの会社に行商人のようにサンプルを持って商談に行きました。
結果、アメリカで3,500店の鮨チェーンを展開する石井龍二さんが当社の製品を使ってくださることになったのです。
この方との出会いが私の人生を変えました。
出会わなければ、今の私や当社は無いと思います。
創業当初が人生で最も大変な時期でしたね。
その後は国内にもニーズが生まれ、現在では83か国に輸出するようになりましたが、どのお取引先も、1度製品を使うとずっと継続して使ってくれるのです。
日本食レストラン、食材輸入もするようになりましたが、すべての事業の下地はパッケージでした。
私はマレーシアの永住権を持っていますが、外国人であることにかわりはありません。
軒先を借りて商売をさせて頂いている事を忘れず、いつも謙虚にいることを社内でも常々伝えています。
私はマレーシアが大好きなので、日本人ですが、日本人の立場からマレーシアのために何かできればと思っています。
昨年Datukの称号を授かりましたので、マレーシアへの恩返しの気持ちでこれからも日本人のスピリット、教育など日本の良い所をマレーシアの人々に伝え続けます。
◆Hiro Food Packages Manufacturing Sdn. Bhd.
http://www.hirofood.com/
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