本日登場するスゴい人は、誰もが知っているであろう「FRIDAY」「週刊現代」の二誌の編集長を歴任した編集者。
彼が週刊現代編集長に就任した1992年当時、同誌は週刊誌5位にまで低迷し、これ以上売上部数が落ちたら休刊というところまで追い込まれていた。
そこから彼は創刊以来最大の発行部数150万部を叩き出し、週刊誌トップにまでのぼりつめた。
報道におけるタブーに積極的に挑戦する記事も多く、田原総一朗氏からは「日本で一番危険な編集者である」と評される。
紙だけではなく、1999年にはいち早くオンラインマガジン「Web現代」も手掛けている。
彼は編集人として何を大切にして来たのだろうか?
さあ…
編集者
インターネット報道協会代表理事
元木昌彦様の登場です!
「百聞は一見に如かず」
私は二度大病をしています。
一度目は小学校に入学してすぐ、二度目は大学受験前に、いずれも肺結核になり自宅療養。
健康診断を受けられないので大学受験も出来ず、自動的に浪人です。
これを挫折とは感じませんが、「明日、どうなるか分からないから今を思いっきり生きる」という価値観を持つきっかけとなりました。
学生時代はバーテンダースクールに通い、新宿、渋谷、上野、銀座で働き、銀座のママからも可愛がってもらいましたね。
読売に勤めていた父の上司から是非入社をと誘われたのですが、当時は雑誌が面白かったので雑誌業界も受けました。
最終的に講談社と読売に受かり、当時結婚を考えていたので、地方転勤の無い講談社に決めました。
月刊現代に配属され初めての仕事は、「よど号ハイジャック事件の機長と会って手記を取ってこい!」でした。
もちろん機長の自宅も分からない。入社当初の限られた人脈を駆使して自宅を探し出し、殆ど張り付きで取材を試みましたが会えず終い。
それからは人脈を広げるためにホテルに足繁く通い、その日の催しをチェックしては取材だと言って中に入れてもらい、沢山の人と名刺交換をする日々を過ごしました。
年配者と付き合うのが好きでお酒も好きでしたので、毎晩誰かに電話しては呑みに行き、人脈を広げていきました。
でも沢山の人と付き合うのは無理があるので、最後に残ったのはせいぜい20人かな。有名無名にかかわらずその業界で力を持っている人に絞るのです。
現場時代には大きなスクープはそれ程ありませんでしたが、45歳で遅咲きの編集長になることができました。
それからは、現場時代に築いた人脈から「編集長になったんだって?こんな情報があるよ」と自分が動かなくても生きた情報が入るようになりました。
雑誌は編集長の思い通りに作れるので、すごく面白かったですね。
当時は全国の新聞に広告を載せましたから、それだけでも相当な影響力を与えることが出来ました。
編集人は聞く力が大切。相手の話を吸収しながら引っ張りだすのです。
すると相手は心を開いてくれます。
こんなに面白いものがある!という自分が味わった感動を、誌面を通して読者に伝えるのが編集の仕事だと思っています。
最近は情報の渦に巻き込まれ、面白いものが無くなったという若い人がいますが、まだまだ世の中は面白いことだらけです。
知識だけで知ったつもりにならず、自らの身体をもって体験してみて下さい。
そうすれば、きっと貴方の人生はもっと豊かになります。
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