“メジャーリーグ”
世界中からトップクラスの選手が集まる、野球選手であれば、一度は憧れる、夢の舞台。
そのメジャーのマウンドに、日本人で初めて立ったスゴい人!が本日登場する。
メジャー時代の愛称は「マッシー・ムラカミ」。リリーフピッチャーとして奪三振数でベスト8にも選ばれた。
野茂やイチローのメジャーリーグでの活躍も、「マッシー・ムラカミ」がいなければ実現していなかったかもしれない。
さあ・・・元メジャーリーガー、村上雅則様の登場です!
「得意分野の才能を磨け」
野球を始めたのは、中学校2年生の秋から。人並み以上に練習をした覚えはそれほどありません。
小さな頃から、山や谷を駆け回って遊んでいたのですが、普通の靴ではすぐに壊れてしまうので、親から与えられたのは、長靴でした。普通の運動靴の2倍以上の重さがあり、野球に必要な足腰の強さが自然に鍛えられていたのだと思います。
将来は、大リーガーになろうとか、プロ野球の選手になろうとか、“何かを目指して”野球を続けていたわけではありませんでした。単純に野球が好きだから続けていたのです。
南海ホークスに入団したのも、鶴岡監督に『アメリカに野球留学させてやるぞ』とお誘いいただいたからです。
入団から1年後の1964年にサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学しました。
このマイナーリーグの時に、2度の2連敗を経験し、落ち込みました。日本のように気軽に相談できる仲間が周りにいなかったので、『日本に帰りたい』と思いました。
でも、試合に臨む前には気持ちを切り替え、マウンドに立ちます。気持ちをズルズルと
引きずったままでは、勝負にならないですからね。
1964年9月1日に、なんと急遽メジャーに昇格することが決まり、ニューヨーク・メッツ戦に登板することになったのです。同年9月29日の対ヒューストン コルツ45s戦では、メジャーの舞台で初勝利を味わうこともできました。
メジャーに登板したその年、日本に帰国する際にメジャーと契約していいということを聞いていたので、ジャイアンツとサインをしました。ところが、日本に帰国後、南海ホークスから事情が違うと言われ、2重契約の状態に陥ってしまいました。
日本でのシーズンが開幕をしてからも、所属問題で試合に出れないストレスの溜まる日々が続きました。5月には問題は解決したのですが、あと一ヶ月問題が解決しなければ、野球から足を洗おうとしていました。
その時に、日本野球機構コミッショナーの内村祐之さんから「所属問題で今は大変だろうけど、自分に克って、将来は大成して欲しい」と言う意味を込めた“克己”と書かれた色紙をもらいました。涙が出るほど勇気付けられました。今もその言葉は大切にしています。
人には、得意、不得手の分野が必ずあります。スポーツが得意な人もいれば、勉強が得意な人もいます。自分の得意分野を活かして活動してみてください。
きっと、いい結果が出ると思いますよ。
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