若い人にもお寿司を食べて欲しいと考案した末広手巻や、高価だという理由で若い人がデートにお寿司を食べにいけなかった時代に職人が握る寿司の食べ放題を考案した老舗寿司店は、またたく間に店舗数を伸ばしていった。
そこの跡取りとなるべく大学を卒業後 ユニバーシティー・オブ・デンバーに留学しHRTMと呼ばれる飲食店関係の経営プログラムを修了。
飲食店の経営を基礎から学び、 家業である 玉寿司に入社し、 新店舗開発を担当した。
しかし経営はそんなに甘くなかった。
座学と実業の違いを肌で感じ、『1年も経たず店が潰れるかもしれない』 という恐怖心と毎日戦っていたという。
どのようにして、 そのつらく苦しい時期を乗り越えたのか?
さあ・・・株式会社玉寿司 代表取締役社長中野里陽平様の登場です!
「トンネルは必ず抜けられる。」
「飲食業は誇りの持てる仕事だ。」と親父から教わって育ちました。
どんなに大変な時でも、自分の仕事に対して愚痴ひとつこぼすことなく働く親父を尊敬していました。
学生時代のアルバイトも、いつか店を継ぐと決めていたので飲食を選んでいました。
しかし、実際現場を経験してみると親父から聞かされた世界とは全く異なり、厨房では料理人が威張っていたり、ギャンブルでいくら勝ったかが武勇伝として語られたり・・・親父から聞いた話とあまりの違いに自分はやっていけるのだろうかと悩み、大学で政治学を勉強していたのでジャーナリストになろうかとも思った時期もありました。ある人に相談したら、「優秀な職人がいても馬鹿な経営者では店の経営はできない。大きな視野で勉強するべき」とアドバイスをもらい、海外へ留学して飲食関係の経営プログラムを学ぶことにしました。
帰国後、玉寿司に入社し新しい店舗を作るプロジェクトに参加。ここからが挫折の連続です。
初日からお客さまに怒鳴られ、板前さんやアルバイトと上手くコミュニケーションがとれず、初月から大赤字。
『新しいお店を作る為に借金もしたのに1年も経たず店が潰れるかもしれない』という恐怖心と毎日戦いました。
毎晩毎晩店に残ってメニューに額をかけたり、ランチを始めたり、メニューに写真を入れたりと、暗中模索の中で1つずつ変えていきました。
最初は朝礼で一生懸命話をしても「めんどくさいな」という雰囲気でしたが、コミュニケーションをとり続け徐々に従業員の雰囲気が変わり始めるとお客さまが増えたのです。
店をオープンしてから7キロは痩せましたが、ありがたい経験ができました。
27歳の時に会社全体の財務状態が悪いことを知り、「のれんさえ守れば大丈夫だ」という親父の言葉で 本社ビルや自宅を売却しました。さらに、大きな出店場所でのトラブルが重なり「もう駄目だ」と呆然としていたら、今まで一番うるさかった銀行の人が、「これであきらめるのか?今から3日以内にもう一度事業計画を立て直してよかったら、こちらが全ての債権者を仕切る」と言ってくれ寝ずに考え、実行しました。とにかく必死でした。
会社を継ぐことが決まったのはクリスマスの日でしたが、地下鉄でひと目もはばからず大泣きをしました。
その玉寿司も今では26店舗を運営し、財務状況も無借金経営が射程距離に入るまでに安定しました。
トンネルはいつか必ず抜けられる。と言ってくれ、この商売を誇りに思わせてくれた親父に感謝しています。
12年後、創業から100周年。お客様たちから愛される寿司職人がいる寿司屋になります。
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