本日登場するスゴい人は北京パラリンピック日本代表として活躍した柔道選手。
中学時代より柔道を始め、地元長崎県の強化選手として活動をしていた。
彼は23歳の時に視力を失った。緑内障によるものだった。
20歳の時に右目に緑内障を発症し、大学在学中の23歳の時に、今度は左目の視力が急激に悪化。
進行を抑えるために手術をしたものの、視力を失い、一時は絶望したという。
しかし彼は、2005年から2011年には全日本視覚障碍者柔道大会90キログラム級で7年連続優勝。
2008年には北京パラリンピック90キログラム級に日本代表として出場した。
更に現在は障害者雇用コンサルタントとして独立し、企業での障害者雇用のノウハウを伝えるなどして、障害者雇用を後押ししている。
さあ・・・株式会社ユニバーサルスタイル代表取締役 初瀬勇輔様の登場です!
「周りの人に恵まれて」
大学2年生の春休み。
地元の病院で手術を終え、眼帯を取った時は絶望的な気分になりました。
視界の真ん中が全く見えず、親の顔も、友達の顔もわからない。本も読めない。
普段やっていることが何もできなくなってしまって、23歳で目の悪い人生を0から始めなければならないなら、死んだ方が楽なんじゃないかと思いました。
でも、「死にたい」と母に言ったら「死にたかったら死んでもいい。私も一緒に死んであげるから」と言われたのです。
この時ハッとして、母を死なせるわけにはいかないと思い、気持ちが改まりました。
幸運なことに、私は目が悪くなってから本当に周りの人に恵まれました。
入院中は地元の友人が毎日見舞に来てくれて、退院後、東京に戻ってからの学校や市への手続きにも友人がわざわざ東京まで来てすべて付き添ってくれました。
学校が始まってからは、大学の友人が私の受ける授業にすべて付き添ってくれました。
また、大学の方も中途で視力を失うという前例の無い中で、私が卒業したい気持ちを伝えると、口頭試験やレポート、出席など様々な方法で卒業できるように働きかけてくださいました。
二人の友人を始め、多くの人が支えてくれたおかげで、諦めずくじけずに頑張ることができました。
視覚障害者柔道との出会いは大学4年生の夏。
皆の進路が決まっていく中で、私は何も決まっていなくて、卒業してどうするんだろうと思っていた時に勧められました。
目が悪くなってから、自ら新しい事に取り組もうという気持ちになることが無かったのですが、この時初めて「やりたい」と気持ちが動きました。
そして、その年の11月の大会に出場し、優勝。
この優勝で人生が変わりました。
視力を失ってから目標を失っていましたが、行動したことで前に進むことができました。
今まで出場した大会の中で最も小さな大会でしたが、一番うれしい大会でしたね。
今は、障害者の仕事を作る仕事をしたいという想いから、独立して障害者雇用コンサルタントとして、障害者を雇用したい企業さんに、会社の為にも障害者の方のためにも良い雇用のありかたをお伝えしています。
今後は、障害者の独立支援も行っていきたいと思っています。
また、パラリンピックをより多くの人に知っていただく事も私の使命だと思っています。
2020年の東京開催に向けて6年間、選手の立場からパラリンピックの啓蒙活動を行っていきたいと思っています。
◆株式会社ユニバーサルスタイル
http://www.universalstyle.co.jp/
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