オリバー・ストーン、フランシス・F・コッポラ、ロバート・デニーロ、ライオネル・リッチー、ビル・クリントン、サウジアラビア王室、ベルギー王室等々、世界中のセレブ達から注目を集め彼の絵を所有している。なんとホワイトハウスにも飾られているという。カリフォルニア州上院議会より芸術功労と異文化交流の貢献者として表彰され、HEAL?THE?BAY(海浜浄化運動)の「SURF?BORD?ART?INVITATIONAL」にも招待アーティストとして選ばれた。日本における画家は「出身大学は?」「師匠はだれか?」といわゆる出所にこだわるものだが、学歴も無い、師事した人もいない彼が、しかも見知らぬ土地アメリカで成功してきた心構えを披露していただきましょう。さあ、工藤村正様の登場です!
「Life?is?Art」
これが私のモットーです。32歳まで、レストランをプロデュースしたり、デザインをやったり、それなりに生活できていたのですが、「工藤さんって、何をメインにしている人ですか?」という友人の問いかけに、「俺はこれで生きている!」と明確に答えられず、これでは『潰しの利かないただのつまらない男』で終わる・・・
意を決して一念発起、人生のリセットをする為、全てを捨ててアメリカ行きを決めました。
まさに、裸一貫、無一文からの勝負です。妊娠7ヶ月の妻が出産してすぐ離婚、その後は親権をイギリスの裁判で勝ち取りロスへ戻り、子供を抱えて制作に打ち込む・・・。
今から思い返しても。ずいぶん思い切ったことをやったなと思います。最初の年は和食屋さんなどでアルバイトをしながら、あちこちの画商に自分の描いた絵のスライドや写真を返信用封筒を入れて、送り続けました。しかし結果は封も切らない状態で殆どが送り返されてきました。
子供のミルク代も福祉事務所からのクーポンで配給を受けるギリギリの生活を続けていました。
私は、子供の頃一時期は親がいなくて食べるものにも事欠き、2歳上の姉とゴミ場を漁って暮らした経験もあり、その頃に比べればまだましだと思いました。渡米後2年を過ごし、ロサンゼルスのアートポスター会社とコンタクトして5枚だけの制作契約を頂き3000名のアーティストが参加する世界的に有名なニューヨークアートエキスポに出展する事が出来ました。
初めての舞台で私の作品がアート業界関係者の目に留まり、出展から1ヶ月後には、一斉に多くの画商から専属契約のオファーが舞い込みました。
絵画を独学で学び、書道と融合させた、『形式にこだわらず、何ものにも囚われない』というスタイルを貫いていたことが受け入れられたのだと思います。
特に禅からは多くの実存哲学を学びました。こだわりは捨てて、“留まらず、偏らず、流されず、そして、あきらめない”という精神でアトリエの中、真摯な姿勢で制作に没頭します。自分のスタイルが出るまで、一心不乱に絵を描きまくりました。継続は力です。その力こそが才能を開花させるただ一つの方法であり、道でもあります。スタイルは作られるものではなく、ひとつの物事をやり続けることで、その人にとって一番自然でやりやすい方法がおのずと身につきそれが結果、その人のスタイルとして滲み出てきます。渡米直後は売れず生活苦もあり悩んでいましたが、常に自分には『サムシンググレートがついている。この根拠の無い自信がある限り絶対大丈夫なんだ。』と言い続けました。『同じ人間、誰かにできたら
私にもできる。』そういう気迫と自分の命と魂の尊厳を大切にし、取り組むことで、どんな困難も必ず
乗り越えられますよ!神様はその人に解決できない問題や課題を与えません!それを乗り越えたとき、
その人の器の大きさはどんどん拡大していくのです。